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常磐津一巴太夫さん

 2014-08-17
けさ五時半ごろ起き、朝刊(朝日)を読んで、いっぺんに目が覚めました。

「常磐津一巴太夫死去 浄瑠璃の常磐津節 人間国宝」

83歳。

高齢とはいえ、つい先日も、雑誌『上方芸能』の最新号で、
後進に贈る言葉といった企画に登場されているのを、
読んだばかりでした。


一巴太夫さんの著書『歌舞伎一期一会』(NTT出版 2009年)

一巴太夫素語り


同書に、「人生の分岐点はいつも『廓文章』」という節があります。
松嶋屋型、成駒屋型の「廓文章」は常磐津と切っても切れません。
私も繰り返し、その実演を体験することができました。

吉田屋の奥座敷。

知らせの柝で、正面下手の障子が引かれると、常磐津のかかり。

「一巴太夫!」


私も声を掛けました。


「無残やな夕霧は」

の語り出しは、いまも耳に鮮やかに残っています。私の財産です。

一巴太夫さん、ありがとうございました。

謹んでご冥福をお祈りします。


戦争と歌舞伎 昭和18年大阪歌舞伎座番付から(3)

 2014-07-06
「大歌舞伎十月興行」の番付を見ると、座組は六月興行とほぼ同じで、
片岡我當(四代目、のちの十三代目仁左衛門・1903-94)が参加。

狂言立ては
昼の部
第一 御所桜堀川夜討
第二 色彩間苅豆
第三 上・大楠公の最後 下・大楠公夫人
第四 乗合船恵方萬歳

夜の部
第一 通し狂言 大岡政談天一坊 五幕
第二 上・くろ髪 下・鳥羽絵
第三 勧善懲悪孝子誉 二幕

一日初日、十四日より昼夜入替。

十月興行番組


「大楠公」、つまり楠木正成のことで、「時局もの」。
六月興行と比べ、十月興行の番付はサイズが一回り小さく、
紙質も落ちています。

見返しには、「勝ちぬく誓」というのが載っています。

十月番付見返し


みたみわれ 大君にすべてを 捧げまつらん
みたみわれ すめらみくにを 護りぬかん
みたみわれ 力のかぎり 働きぬかん
みたみわれ 正しく明るく 生きぬかん
みたみわれ この大みいくさに 勝ちぬかん

この「勝ちぬく誓」は防空演習や軍事教練の折に唱和されたそうです。

「大君」とは、当時の人には説明不要だったでしょう、天皇のこと。
「みたみ」は「御民」。「みたみわれ」とは、
「天皇の家来である私」ということ。

その「私」を主語にして、
真っ先に唱えなければならないのは、大君に「すべてを捧げる」こと。
その次が「すめらみくに(皇御国)」つまり「天皇の国」を護ること。

現代の戦争ものの映画などで、
「若者は空に散った。愛する人を守るために」
といったフレーズがよく出てきますが、
私はかねがね、「ウソや。それはないやろ」と思ってきました。

中には主観的に「妻や恋人のために」と思った人もいるかも知れませんが、
戦争遂行の基軸になっているのは「天皇のためにすべてを捧げよ」であり、
「国を守る」というのは、今日イメージする国民主権の国ではありません。

戦地に行った元日本兵の方による戦争体験の証言で、

「銃も、弾も、軍馬も天皇陛下のものとして扱った」
「上官の命令は天皇陛下の命令ということ絶対服従だった」

という話を何度も聞きました。

六月興行の番付に載せられた「戦陣訓」(1941年)。
その「本訓」の第八にあるのが、よく知られる

「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」

天神橋筋商店街にあった古書店「天四文庫」はことし5月末で閉店。
閉店前にお邪魔したとき、ご店主(90歳)が、

「時間があれば聞いてほしいのです」

と、自らの戦争体験を語ってくださいました。

「戦地から撤退するときに、殿(しんがり)で部下を前線に留めました。
 部下は『死ぬのは怖くありません。でも腹が減るのが怖い』と言ったのです。
 死ぬことが怖くないという人間をつくったのは教育です」


「戦力増強の秋に展く」と銘打った十月興行の番付、
本文の中に登場するのが兵器増産のスローガンですが・・・。

十月興行スローガン1

十月興行スローガン2


戦局の転機となったミッドウェー海戦での日本海軍敗北から、
このときすでに1年半余が経っています。

(つづく)


戦争と歌舞伎 昭和18年大阪歌舞伎座番付から(2)

 2014-07-05
この番付の歌舞伎興行が行われた昭和18年(1943年)は、
どんな年だったのか、手持ちの岩波「新版日本史年表」から拾うと、

1・13 ジャズなど米英楽曲約1000種の演奏禁止
2・1 ガダルカナル島撤退開始
3・15 谷崎潤一郎「細雪」(「中央公論」)連載禁止
3・18 戦時行政特例法・戦時行政職権特例等各交付(首長の権限強化)
4・18 連合艦隊司令長官山本五十六、ソロモン上空で戦死(6‐5 国葬)
5・29 アッツ島の日本守備隊全滅
6・1 閣議、戦力増強企業整備要綱決定(超重点生産)
    東京都制交付(7・1施行)
6・4 戦時衣生活簡素化実施要綱決定(長袖の和服・ダブルの背広等禁止)
6・20 創価教育学会の牧口常三郎ら幹部検挙
7・21 国民徴用令改正(国家目的による徴用を規定)
9・3 伊・連合軍、休戦協定調印(-8公表) 無条件降伏
9・4 上野動物園、空襲時にそなえ猛獣を毒殺
9・17 25歳未満の女子を勤労挺身隊として動員
10・21 神宮外苑競技場で学徒出陣壮行会
12・10 文部省、学童の縁故疎開促進を発表

大阪市の公式の市史である「新修大阪市史」第10巻(1996年)、
そこに収められている年表から大阪の出来事を拾うと、

1・1 高槻市成立
1・23 大阪市役所職制改正、防衛部を新設
3・15 大阪府特高課、大阪商大名和統一教授らを検挙(大阪商大事件)
4・1 大阪市分増区実施。福島・大淀・城東・都島・生野・阿倍野・
    東住吉区新設(大阪市22区制)
5・1 貝塚市成立
5・26 旧市政下での最後の市会開会
9   府会議員任期満了、戦局悪化のため選挙中止
9   天王寺動物園で動物処分始まる(19年にかけて)
11・16 中之島公園で出陣学徒合同壮行式
12・18 北区協和会館で在阪朝鮮・台湾学徒志願兵壮行会挙行
12・31 市役所職制改正、臨時防空施設部設置

これだけみても、戦争遂行へ、国民生活への干渉・統制、
若者を戦争や戦時体制に動員する動きが一層進んでいったことが分かります。
岩波年表にある谷崎の「細雪」の連載、
作品に登場する四姉妹のぜいたくな生活が「時局になじまない」
として当局から禁止されたことへの不安や悔しさを、
谷崎が詠んだのではないかとされる俳句を記したハガキが発見された、
というニュースがありましたね。

歌舞伎はじめ興行界への統制や弾圧は、以前から始まっていました。

「新修・大阪市史」第七巻(1994年)によると、
昭和12年(1937年)は初代中村鴈治郎の三回忌、新派創立50周年、
松竹家庭劇創立10周年、新国劇創立20周年の節目で、
「各所で記念興行がにぎやかに行われた」(899ページ)。

ところが同年7月7日の盧溝橋事件で日本は中国への全面侵略戦争を開始。

「演劇界もまた戦時体制に入ることになった。
 九月九日、大阪府は国家総動員の一員として演劇・演芸・映画など
 大衆の感情・意識の高揚に特に重大な役割を演ずる大衆娯楽の統制を目ざし、
 午前十時から知事別館に松竹興行の白井社長、吉本興業の林正之助をはじめ、
 劇団・劇場・映画館等の責任者や、主だった俳優・芸人・演出家・作者など、
 興行会の代表六五人を集め、『興行物の質的向上をはかり、娯楽を通して
 大衆層の非常時意識の昂揚に邁進するよう関係者の自覚を促し』ている(『大
 阪毎日新聞』昭和12・9・8)」(899~900ページ)

「新修 大阪市史」は大阪府警察局保安部の検閲による新劇の上演禁止、
さらには昭和15年(1940年)の中座・初春公演に予定されていた、
「時雨の炬燵」が突然上演禁止処分となったことにも言及。
さらに、戦意高揚のための「軍事劇」や「国策宣伝劇」が増え、
「戦時体制を理由に戯曲創作の内容は軍事・国策宣伝に
強く拘束されはじめた」(903ページ)と書いています。

手元の「大歌舞伎六月興行」の番付の裏見返しには、歌舞伎座支配人の言葉として、

「歌舞伎座は皆様の劇場として劇場機構の萬全を期すると共に、
 時局下に相應しい健全なる慰樂機関として、演劇課せられた使命の完遂に、
 従業員一同は努力邁進して居りますが、設備その他お気附きの点を始め
 陣容や狂言に対しても、皆様の御希望や御指導をお伺ひし度いと存じます。
  そして、真に銃後演劇文化の向上を目指して、皆様と共に銃後國民慰樂の
 樹立を計り度いと存じます」

六月興行裏見返し


もう一冊の「大歌舞伎十月興行」の番付では、表紙に、

「戦力増強の秋に展く」

との文字が添えられています。

十月興行表紙



(つづく)

戦争と歌舞伎 昭和18年大阪歌舞伎座番付から(1)

 2014-07-05
古書店で古い歌舞伎の番付を見つけたら、
できるだけ求めるようにしています。

以前、大阪日本橋・国立文楽劇場向かいの「古本のオギノ」で、
昭和18年(1943年)の大阪歌舞伎座の番付を2冊入手。
同年6月興行と、10月興行のものです。
太平洋戦争中の番付が、どれだけ現存しているのか分かりませんが、
ともかく1冊300円で買いました。

この2冊を手がかりに、当時の歌舞伎や戦争について考えてみたいのです。

昭和十八年番付


2冊とも表紙には、「坂東簑助」の印があります。
後の八代目坂東三津五郎(1906-75)。
出演俳優用として幕内で配られたうち、簑助丈の蔵書だったのではないかと推測。

まず1冊目の「大歌舞伎六月興行」から。

表紙をめくると、見返しに戦艦と軍用機の絵があり、
「護れ我等の海と空」とスローガンが添えてあります。

六月番付見返し


太平洋戦争前の番付だと、この見返しで興行側が、
「憚乍口上」と狂言立てや出演俳優を紹介した文章が載っていますが、
この番付では戦時色に塗り替えられてしまっています。

この番付には別に紙がはさんであります。

別紙


「敬弔 故山本元帥國葬當日
 (五日)ハ哀悼ノ意ヲ
 表シ謹而休演仕候」

「山本元帥」すなわち連合艦隊司令長官・山本五十六はこの年の4月18日、
南太平洋のブーゲンビル島上空で、搭乗機が撃墜され戦死。
6月5日に東京・日比谷公園で国葬が行われることになり、
大阪歌舞伎座も当日は休演としたようです。

この興行は6月3日初日。「5日休演」の紙がはさんであるということは、
番付は初日前後に出回ったものでしょう。

見返しのスローガンは華々しいですが、戦争の段階は、「護れ」どころか、
前年の1942年6月のミッドウェー海戦で日本海軍は空母4隻を喪失。
この年2月には陸軍がガダルカナル島から撤退(戦死・餓死者2万5千人)、
さらに連合艦隊司令長官が討ち取られてしまう状況。

山本の戦死は当時の国民に衝撃を与えたそうですが、
その中で戦意高揚を図る狙いが歌舞伎の番付にも徹底されたということでしょう。


六月番付扉


「大歌舞伎六月興行」の狂言立ては

昼の部

第一「一谷嫩軍記」 
第二「雪暮夜入谷畦道」

夜の部

第一「勢州阿漕浦」
第二「花桐いろは」
第三「玉藻前曦袂」
第四「三社祭」

(15日から昼夜入替)

出勤俳優は

實川延若(二代目・1877–1951)
中村梅玉(三代目・1875–1948)
中村魁車(1875-1945)
阪東壽三郎(三代目・1886-1954)
という関西歌舞伎の大看板に、東京から、
市川壽美蔵(のちの三代目壽海・1886-1971)
さらに中村富十郎(四代目・1908–60)、
中村芝鶴(二代目・1900-1981)、
実川延二郎(のちの三代目延若・1921–1991)、
そして坂東簑助などの顔ぶれ。

「一谷」は現代では「熊谷陣屋」が単独で出ることが多く、
たまに「須磨の裏」「組討」が上演されます。
この六月興行では「通し狂言」としてこの三場の前に、
序幕「敦盛出陣」を付け、話の筋を通してあります。

「花桐いろは」は梅玉のための新作狂言(作・演出は郷田悳)。
(このときが初演でしたが、その後は再演がなく、
1998年に当代梅玉が三代目追善狂言として上演しました。
大阪松竹座での舞台を私も観ました)

番付のページをめくっていくと、各狂言に識者の解説や絵番付があります。

「一谷嫩軍記・敦盛出陣」

敦盛出陣



と、またしてもスローガン

スローガン


これは「雪暮夜入谷畦道」、いわゆる「三千歳直侍」のあらすじに添えたもの。
「戦ひながら建設だ」とは、芝居の内容とは無関係。

「玉藻前」のあらすじページには、「戦陣訓」。

戦陣訓1


「忠孝一本は我が國義道の精粋にして
 忠誠の士は又は必ず純情の孝子なり」

これも、ほとんど芝居とは関係なし。

「三社祭」のページにも「戦陣訓」

戦陣訓2



「流言蜚語は信念の弱きに生ず
 惑うこと勿れ 動ずること勿れ」

これも清元の楽しい舞踊とは、まるで関係ありません。
戦争を遂行する国家が何よりも恐れるのは、
「流言蜚語」というよりも、人心の離反なのでしょう。

(つづく)

大阪大空襲と上方歌舞伎の役者さん

 2014-03-13
私にとって初の歌舞伎見物は、高校2年生だった1982年12月、
南座の顔見世(九代目幸四郎襲名披露)でした。
京阪電車が、まだ鴨川沿いに地上を走っていた時代です。

前売り当日の早朝から南座前に並んでいたら、
私の近くで高齢の方たちが芝居談義。
「初代の鴈治郎はんが…」
「私は梅玉さん(三代目)、好きやった」
といったやりとりです。

初代中村鴈治郎は1935年没。
1934年の舞台を仮に15歳で見はった人でも、
1982年には63歳です。

東京だけではなく、上方・関西の歌舞伎が厳然と存在していた、
その時代の名優の芸に触れた人々が観劇層に健在だったわけです。

会話の中で、

「やっぱり、カイシャはんでしたな」
「そうですな、シンコマヤはん。楽しませてもらいましたなあ」

というのがあって、駆け出し歌舞伎ファンの私は当時、
「カイシャて誰?」と思ったものでした。

中村魁車。1875年、大阪生まれ。
初代鴈治郎の門に入り、戦前・戦中の上方の歌舞伎を担った人、
立役から女形まで幅広い芸域。

最近、古書店で入手した1943年(昭和18年)の、
大阪・千日前の歌舞伎座の番付にも出ています。

同年6月興行では「熊谷陣屋」の義経、
同年10月興行では「色彩間苅豆」の、かさねを演じてはります。


番付1


番付2




魁車さんは、いまからちょうど69年前、
1945年3月13日深夜から14未明の第1次大阪大空襲で、
防空壕で亡くなりました。


初めて歌舞伎を観てから、手当たり次第に歌舞伎の勉強をして、
魁車さんの戦災死のことを知り、

「防空壕で亡くなられたとは、なんと痛ましい…」


と思って、歳月が経ちました。


でも、最近、先の記事でも書きました、

『検証 防空法―空襲下で禁じられた避難』
(水島朝穂・大前治著 法律文化社 2014年2月10日初版1刷)を読んで、

「防空壕」とは決して、
国民の生命を空襲から守るものではなかったと認識を新たにしました。


そこで死ななければならなかった「防空壕」って、一体、何なんやと。


魁車さんについてはブロマイドや舞台写真、
当時、舞台を見た方の覚書以外に、その芸を伝えるものは残されていません。

その死から69年。

1943年の番付の役者連名に、
「中村魁車」という名優がいた証(あかし)を見出す私です。


この番付については、別途また書きます。



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プロフィール

こにし すすむ

Author:こにし すすむ


京都・西陣生まれ。大阪の「勤め人はもにか吹き」です。

木綿を中心に、普段のきもの暮らしを楽しんでいます。

▼2005
FIH JAPAN第25回コンテストブルース部門1位
▼2006~
デュオ「こにしんぼ」などで神出鬼没。「出前はもにか」などで活動中

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