織るや西陣(弐) 私ときもの(23=了)
2008-11-06
うちに「解体屋はん」が来た日は、私は学校に行っていて、帰ったときには、
すでに工場は、がらんとしていました。
そういう日がやってくる以前に、祖父は織り手でしたが、
すでに私の父は大学出の会社員でした(織物会社ですが)。
私の代となっては、
西陣の賃機を「継ぐ」、どころの話ではありませんでした。
実社会・実生活ときものがどんどん隔絶し、
その上に、景気の浮沈の中で、
西陣の変遷がどういうものであったか、
データに裏付けられた正確な記録をまとめる余裕は、
今の私にはありません。
ここでは、子どものころの記憶に頼っているだけで、
逆に、知らないことが余りにも多いと痛感していますが、
いつか、自分自身が生まれ育った西陣の運命を、
きちんと調べて、整理しなければと思っています。
(つづき)
それでも、うちに4台あった力織機は、一度に全部なくなったのではなく、
その後、ご縁ができた別の織元さんの下で、
残った1台の力織機で祖父が、新たに入れた手機(てばた)で母が、
浄土真宗向けの法衣である、袈裟を織るようになりました。
西陣で織手として生きる者の誇りとして、
そして家族の現在と将来を支える生活の糧を得るために、
織り続けたのだと思います。
西陣は滅びたわけではありません。
袈裟は西陣ならではの金襴の織物で、
手機では「本金(ほんきん)」の箔を使い、
紋様を織り出していきます。
一般に着尺でも、機械織より手織りの方が高価なわけですが、
だからといって、機械織が誰にでもすぐできるものではなく、
技術と熟練が必要なのは言うまでもありません。
2005年に満96歳で死んだ祖父は、
80歳になるまで織り続けていました。
今は、母親が自分の体調と相談しながら、少しずつ仕事をしています。
もとより「伝統工芸士」や「人間国宝」といった肩書きはありません。
しかし、まぎれもなく、確かな仕事で黙々と織り上げる、西陣織の職人です。
そして西陣に限らず、今も全国各地で織や染に携わっているのは、
そういう方たちが少なくないのでないでしょうか。
関東の木綿着物である川越唐桟を織る機が止まったと聞いたとき、
織っていた方はどんな思いだったろうと、考えました。
私は今、さしあたり、ひとりの「きものを着る人」でしかありません。
ただ、西陣の織屋に生まれ育った者として、
絹であれ木綿であれ、麻であれ、
素材をつむぐ人たち、染め、織る人たち、
きものを商う人たち、仕立てる人たちのことに、
どこかで思いをはせながら、着ていきたいと思うのです。
――連載「私ときもの」(了)
それでも、うちに4台あった力織機は、一度に全部なくなったのではなく、
その後、ご縁ができた別の織元さんの下で、
残った1台の力織機で祖父が、新たに入れた手機(てばた)で母が、
浄土真宗向けの法衣である、袈裟を織るようになりました。
西陣で織手として生きる者の誇りとして、
そして家族の現在と将来を支える生活の糧を得るために、
織り続けたのだと思います。
西陣は滅びたわけではありません。
袈裟は西陣ならではの金襴の織物で、
手機では「本金(ほんきん)」の箔を使い、
紋様を織り出していきます。
一般に着尺でも、機械織より手織りの方が高価なわけですが、
だからといって、機械織が誰にでもすぐできるものではなく、
技術と熟練が必要なのは言うまでもありません。
2005年に満96歳で死んだ祖父は、
80歳になるまで織り続けていました。
今は、母親が自分の体調と相談しながら、少しずつ仕事をしています。
もとより「伝統工芸士」や「人間国宝」といった肩書きはありません。
しかし、まぎれもなく、確かな仕事で黙々と織り上げる、西陣織の職人です。
そして西陣に限らず、今も全国各地で織や染に携わっているのは、
そういう方たちが少なくないのでないでしょうか。
関東の木綿着物である川越唐桟を織る機が止まったと聞いたとき、
織っていた方はどんな思いだったろうと、考えました。
私は今、さしあたり、ひとりの「きものを着る人」でしかありません。
ただ、西陣の織屋に生まれ育った者として、
絹であれ木綿であれ、麻であれ、
素材をつむぐ人たち、染め、織る人たち、
きものを商う人たち、仕立てる人たちのことに、
どこかで思いをはせながら、着ていきたいと思うのです。
――連載「私ときもの」(了)
