織るや西陣(壱) 私ときもの(22)
2008-11-05
飛び飛びに書いてきた連載「私ときもの」ですが、今回のテーマでひとまず最終回。
締めくくりに、私が育った京都の西陣のことを、
書いておきたいと思います。
ひところ、「私は西陣の織物屋の生まれで…」
と自己紹介すると、
「どうして、跡を継がなかったのですか」
と聞かれることが、よくありました。
「きもの暮らし」を始めると、こんどは、
「西陣のお生まれですか、それできものなんですね」
といった声もあります。
みなさん、西陣の織屋ということで、
ある種のイメージがあるのだと思いますが…
(つづき)
まず、素朴な話ですが、反物を織っている織屋は、
自分自身が、それを着るために織っているわけでは、ありません。
今もある私の実家は、典型的な「織屋建て」の建築様式で、
間口は3間で、玄関からずっと「はしり」(通り庭)があり、
庭を隔てて一番奥に別棟の「工場(こおば)」があります。
私が子どものころ、そこに4台の力織機があり、
お召しの反物を織っていました(私の記憶にあるのは雨コート)。
わが家は、織元から材料の糸などを運んでもらって織る、
いわゆる「賃機(ちんばた)」で、
私の祖父を中心に、祖母と母親がはたいていました。
祖父は毎朝7時から織り始め、8時過ぎにいったん朝食、
正午まで織って昼食と休憩、4時まで織って休憩とおやつ、
そして夕方6時まで織っていました。
台所の横では、糸繰りが動いていて、
いつも家の中には、どこかで絹の匂いがしていて、
夜、食後には、織り上がった反物を検品し、
小さな汚れはベンジンをつけて落としていました。
生活の糧として、朝から晩まで働いて織った手間賃が、
いったいどれくらいだったのか、
私の親たちは、家の経済のことは子どもたちに語らなかったので、
私は今のところ、知りません。
その反物が、織元から問屋をへて、実際に店頭に並んだとき、
いくらの値段がついていたのかも、私は知りません。
ただ、私が物心ついたころには、
いつも4台の力織機が音を立てて動いていて、
それが当たり前でした。
私が卒業した小学校の校歌の2番の歌詞に、
「織るや西陣、筬(おさ)の音、絶ゆるときなく」
というのがあります。
育った地域の小さな町内にも、織物関係の家が並び、
斜め向かいのお家は、染物をやってはりました。
小学校のクラスでも、
なんらかの形で織物に携わっている家の子が多かったです。
子ども心に、西陣に何か恐ろしいことが起こっていると感じたのは、
70年代の終わり、小学校から中学校へ進学するころでした。
「○○さんところへも、壊し屋はん(解体業者)が来て、
織機をハンマーで叩き壊していくので、
○○さん、『これまで一生懸命、働いてくれた機械や。
もうちょっと優しいにやってもらえないか』
と、涙ながらに頼まはったそうですけど」
祖父母と母がそんな話をしていたのを、今も覚えています。
街を歩くと、軒先に、解体された織機や、
糸車などが積まれている光景を目にするようになりました。
織屋だった建物が、学生マンションになったり、
ガレージになったりしていきました。
わが家でも、4台の織機が全部動くということはなくなり、
とうとう、あの壊し屋はんがやって来たのでした。
(つづく)
